儒学
諸子百家の時代
韓国思想四代文明;
Mesopotamia文明(BC3500~BC500)
Egypt文明(BC3000~BC30)
Indus文明(BC2600~BC1800)
黄河文明(BC2200~);中国の思想と文化は東アジアに影響を与える
韓国の思想
ⅰ、土着固有思想(檀君、天神、山川神、先祖神など)
ⅱ、儒学思想
ⅲ、道学思想
ⅳ、仏学思想
ⅴ、基督教思想
ⅵ、他西洋思想
中国の儒学思想は、「倫理学」・「政治学」である
夏(2205~1766BC);
殷(商)(1766?~1111BC);(皇)帝 → 天(命) ← 徳(民心)
周(1111~255BC;西周);天命思想(革命とは天の命が変わること)
春秋時代(770~403BC);諸子百家の時代(しょし ひゃっか)
戦国時代(403~221BC);諸子百家の時代
秦(221~206BC);国家統一
漢(206BC~220AD);
春秋経;隠公1年(前722)から哀公14年(前481)にいたる、12公、242年間の部分
司馬談(?~110BC)六家分類
劉歆(BC46~AD23)十家分類
班固(32~92AD)〚漢書〛
<芸文志の諸子略>に諸子百家を「九流十家」に分類した、当時189家、4,324編
●春秋・戦国時代(770~221BC)
「王、諸侯、大夫、士(儒)、農、工、商」
中国の春秋戦国時代、天下は大いに乱れ、諸侯は覇を争った。彼らは自由に思想を展開し治世の方策を打ちだした。それが諸子百家の思想である。中でも後世に大きな影響を与えたのが儒家と道家の思想であった
■〚儒家〛司徒(教育担当の官名)仁の思想
【孔子】(552~479BC);正名論、仁義、忠恕、知命
【孟子】(372~289BC);性善説
【荀子】(315~230BC);性悪説、礼楽論、正名論
家族道徳を第一とする愛「仁」を主張
■〚墨家〛清廟(宗廟担当の官吏)兼愛交利
【墨子】(479~381BC);宋人(或は魯人)、兼愛、天志、明鬼
孔子以後、始めての重要思想家、孔子は古代文明の擁護者、墨子は古代文明の批評家、儒と士(武士)は、貴族に所属した専門家(儒は上、中階級、士は下階級、庶民)
墨子集団;
1、攻撃的戦争に反対、自己防衛の為の手段
2、他の武士集団と違い職業倫理と合理的な哲学的意味を持つ
3、「別」と「兼」;三表 ①根本(本、聖王の事跡に根本)
②淵源(原、百姓の直接的な経験に淵源)
③効能(国家と百姓の利益に会うか)
4、兼愛;孔子の仁、義自体は賛成、礼、楽は貴族階級の特権である事から差別、孔子の差別愛としての「仁」の否定、儒家の形式主義に反発として無差別、平等の愛「兼愛(無差別愛)」を主張、博愛主義
相互の助け合い――「交利」
戦争は浪費の最大なもの――非戦論(非攻)
■〚名家〛禮官(礼儀担当の官吏)
中国哲学史上初めてで専門的に名称(名)、事実(実)の本質とその関係を論じた学派
論理学、「形象を超越した境地」の発見、形而下と形而上の区分、形而下が「実」、大小、方円、長短、黒白などの形象の類型、経験の対象又は経験可能な対象は皆形象を持っている、現実世界の形象を持ってる対象は全て経験可能な対象である
【惠施】(BC360~260);宋国(現河南省)人、荘子天下篇に10事、名実論
・大一、小一論(至大、至小)
・厚さは
・万物を同じように愛する、天地は一つの全体
【公孫竜】(320~250BC);
惠施の「実」は相対的、可変的である
公孫竜の「実」は絶対的、不変的である
①白馬論(白馬非馬論);
②堅白論
白と言う普遍者は経験の対象にならない、白い物は見ることが出来るが普遍者である「白」そのもの自体は見えない、名による普遍者は皆形而上の世界であり分離された独立的存在である
③指物論
■〚道家〛史官(事実記録担当の官吏)道の思想
【楊朱】;
【老子】(5C.~4C.BC);
形象がある全ての事物は名を持っている(有名)、この有名と対照的な「無名」がある、形象を超越した全部が無名ではない、普遍者は形象を超越しているが名はある
老子第1章、
老子第32章、
老子第41章、
無名論、常道論、孔子の人為的な制約としての「礼」を否定「無為自然」小国、自然主義、「無為自然」指向
【列子】(4C.BC)
【荘子】(365~290BC);蒙人、名周、博学多識、基本思想為老子
①至福(絶対的幸福);持って生まれた能力が「德」、その徳は「道」から生成
その能力が充分に、自由に発揮できる時が幸福になる
②最善の統治は無統治;苦痛と悲劇とは法、道徳、制度、政府の意図は一つの基準を立ってその差異をなくす、人為で自然(天)を滅しではならない、「天人合一」
③以理化情;感情は理性と悟性で中和する、聖人は情がない
④「至人無己、神人無功、聖人無名」;至人、神人、聖人は絶対幸福を達成した人
⑤不(非)知の知;
■〚法家〛理官(獄訟審理担当の法官)法治主義
国力の増強を狙う
【商鞅】(?~334BC)
【韓非子】(?~233BC) 孔子の「徳治」の否定
【李斯】(?~210BC)
富国強兵が優先する時代、法による民衆を統制、国内統一と
【子産】
【申不害】
■〚陰陽家〛方士、羲和(羲氏と和氏、上古時代の天地四時担当の官吏)術数
【鄒子】(305~240BC);五行、月令、騶衍
陰陽五行説
六種;1、天文 → 日、月、五星
2、暦譜 → 春分、秋分、冬至、夏至
運行;1、五行 → 五常(形気)、五事(態度、言論、視力、聴力、思想)
2、蓍亀 → 占
3、雑古 → 観相、風水
4、形法
■〚從横家〛行人(大行人と小行人、朝覲聘問担当の官吏)外交官
【蘇秦】(4C.BC)
【張儀】(?~310BC)
外交論、外交戦略、術策、「合從・連横」
■〚雑家〛議官(諫議担当の官吏)儒、墨、名、法家の統合論
【呂不葦】(?~235BC)「呂氏春秋」
【准南子】(2~2)
■〚農家〛農稷(農業担当の官吏)
【許行】君臣並耕説
■〚小説家〛稗官(町風俗記録担当の官吏)
【宋子】
■〚兵家〛戦略戦術;
【孫子】(6C.~5C.BC)
【呉子】(?~381BC)
中国儒学の流れ
ⅰ、先秦諸子;秦始皇帝34年(BC213)、「焚書坑儒」
ⅱ、両漢経学
ⅲ、魏晋玄学
ⅳ、隋唐仏学
ⅴ、宋明理学
●漢朝の儒学(206BC~220AD)、隷書体
●訓古学
「不嗜殺人者能一之」人を殺すことを好きではない者が天下を統一出来る、とした孟子の予言は的中しながった、BC221年、秦統一、BC206年、漢建国
孔子に始まる儒教の思想は、孟子、荀子を経て発展したが、やがて漢代に入ると、武帝の時代には、董仲舒の教説によって正統教学に国定され、支配層の指導精神、家父長制度の原理となるにいたった。漢代以降、儒教は思想的にはほとんど新しい発展はなく、五経(易・詩・書・礼・春秋)を経典とし、礼楽制度の攻究と訓古の学が主流を占めた。
【董仲舒】(176~104BC)廣川人(現湖南省)
景帝年間博士、武帝年間(140BC)には、儒学を体系化し、漢の国学に採択した、中国の政治理念とした。「太学」設置し「五経博士」講義し、古典の復元、経典や字句の注釈に力を注ぐ。(訓古学の始まり)
①天(天、自然、上帝)
②宇宙論;10大要素(天、地、陰、陽、木、火、土、金、水、人)
宇宙には陰陽の気がある、水中に魚、人は気の中
天地の常道は陰陽の連続、陽は天の徳、陰は天の刑
天は希怒の気と哀楽の心を持つ、天、地、人は万物の根本、この三つは一体である
③人性論;全てが陰陽のように一対になる、心も性(陽)と情(陰)
善は米、性は稲、稲は米を産出するが米ではない
王教、孟子は禽獣との比較で善である、董仲舒は聖人と比較でまだ善でない(未善)
④社会倫理
「綱常」;道徳、一般的の道徳律(文化と文明の本質)
⑤政治哲学;4政(慶、賞、罰、刑)
⑥歴史哲学
「三統」;黒統、白統、赤統
今日、パシズム(黒)、資本主義(白)、共産主義(赤)
古文学派、秦始皇帝の焚書坑儒(BC231)以前の経典を主張(劉歆、BC46~AD23)
今文学派、漢代の文書で出来た経典(董仲舒、176~104BC)
<五倫>社会倫理 | <三綱> | <五常>個人の徳目 |
①父子有親(孝) ②君臣有義(忠) ③夫婦有別 ④長幼有序 ⑤朋友有信 | ①君為臣綱 ②父為子綱 ③夫為婦綱 模範となる事 | ①仁(木、東) ②義(金、西) ③礼(火、南) ④智(水、北) ⑤信(土、中央) |
【馬 融】(79~166)
【鄭 玄】(127~200)
●魏・晋南北朝時代(220~581)道教文化が盛興
2世紀に「太平道」と「五斗米道」を統合し「天師道」を創始。
北魏太武帝(423~452)の時、国家公認
【張 角】(?~184)河北地方から、「太平道」創始(黄巾の乱の主力)
【張 陵】【張 魯】四川地方から、「五斗米道」創始
【冠謙之】(363~448)「新天師道」創立
●隋・唐朝時代(581~960)仏教文化が盛興
1世紀に西域を経て伝来、北魏道武帝(388~409年)の時、国家公認
【仏図澄】(プドチンガ、 ?~348)―――洛陽
【法顕】(337~422 960~1644)仏国記
【達磨】(ダルマ、 ?~528)中国禅宗の始祖
<中国禅宗の流れ>
初祖【達磨】(?~528) 四祖【道信】(580~651)
二祖【慧可】(487~593) 五祖【弘忍】(602~675)
三祖【僧燦】(?~606) 六祖【慧能】(638~713)〚六祖壇経〛
【孔穎達】(574~648)「五経正義」―――科挙の指針書
【韓 愈】(768~824)古文復興運動
●宋・明朝の儒学(960~1644)
●性理学―――『宋学』『理学』『程朱学』『朱子学』
宋代にはいると、儒学思想は、玄学、仏学、特に禅宗の影響を受け、ここに宋学が成立した。程顥、程頤らによって展開されてきた新しい思想は、宋代後期、朱喜によって首尾一貫した体系を与えられ、宋学は朱子学として完成することになった。朱子学の内容は、理気二元論により存在論、「性即理」の倫理学原理、「居敬・窮理」の説の方法論などである。すなわち、朱子学によれば、宇宙の万物の運動する「気」によって構成され、それらは宇宙の根拠であり、宇宙をあるべきようにあらしめている原理である「理」によって存在している、とされる。そして、人間もまた「気」(情・欲)を克服して、「性=個別的存在における理」(内容的には仁・義・礼・智・信の五常)に変えることが必要であり、それが人間の倫理的課題であるとした。そして、そのためには、天地万物に即して理(聖人の教え)をきわめ(=窮理、すなわち格物致知)、心を統一して天理(本然の性)を守れなければならない(=居敬)、とした。
【邵雍】(1011~1077)北宋五子、易学者
邵雍(しょう よう)字・堯夫、自称安樂先生、後世、邵康節先生と呼ばれる。
太極
動 静
陰 陽 柔 剛
少陰 少陽 太陰 太陽 太柔 太剛 少柔 少剛
↑← 天の四時 →↑ ↑← 地の四維 →↑
1元 ― 12会 ― 30運 ― 12世 ― 30歳 ― 12月 ― 30日 ― 12辰
1日 ⇒ 12辰
1月 ⇒ 30日
1歳 ⇒ 12月 ⇒ 4,320辰
1世 ⇒ 30歳
1運 ⇒ 12世
1会 ⇒ 30運
1元 ⇒ 12会 ⇒ 4,320世 ⇒ 129,600年
両儀 ⇒ 29,600年
【周敦頤】(1017~1073)北宋五子
現湖南省道県人、字は茂叔、号は濂渓、宋学の祖、宇宙の原理や人間の本質を議論
「太極図説」;宇宙の生成から人生論、道徳論を説く
無極(ultimateless) =太極(supreme ultimate) =理
無極 ⇒ 太極
両儀 ⇒ 陽 陰
四象 ⇒ 太陽 少陰 少陽 太陰
八卦 ⇒ 乾 兌 離 震 巽 坎 艮 坤
老子 ;「無極」 「二気」
周敦頤;「太極」 ―― 「両儀」 ―― 「四象」 ―― 「八卦」
朱喜 ;「理」 「陰と陽」 「四季」
「天と地」
八卦(卦名) | 和訓 | 自然 | 性情 | 家族 | 身体 | 方位 |
乾(ケン) | いぬい | 天 | 健 | 父 | 首 | 西北 |
坤(コン) | ひつじさる | 地 | 順 | 母 | 腹 | 西南 |
震(シン) | - | 雷 | 動 | 長男 | 足 | 東 |
巽(ソン) | たつみ | 風 | 入 | 長女 | 股 | 東南 |
坎・戡(カン) | きた | 水 | 陥 | 中男 | 耳 | 北 |
離(リ) | - | 火 | 麗 | 中女 | 目 | 南 |
艮(ゴン) | うしとら | 山 | 止 | 少男 | 手 | 東北 |
兌(ダ) | - | 沢 | 悦 | 少女 | 口 | 西 |
【張載】(1020~1077)北宋五子、気学の祖
字は子厚(しこう)、鳳翔県(いまの陝西省眉県)横渠鎮人、世に横渠先生と称された。
程顥(ていこう)・程頤(ていい)の表叔(母方の叔父)。
張載は『易』『中庸』に依拠し、万物の生成を陰陽二気の集散によって説明し、「太虚」をその本体とした。太虚は無形であり、気は有形だがこの両者は一物両体、太虚即気という緊密な関係にあるという気一元の哲学を樹立した。太虚と気による二元論は周敦頤より発展しているが、「太虚」説は宋学の主流とはならなかった。ただし、王陽明には大きな影響を与えている。
人間性を「気質の性」と「天地の性」の両面から考えることを提唱し、道徳の淵源は太虚=天地の性にあると説き、気質を浄化して天地の性に帰ることを勧めた。「心が性と情を統べる」という見解は、後の朱熹によって二程にも勝るとされている。個人修養と社会生活における「礼」の重要性を強調し、仏・道の二教を排斥し儒教の独立性を明確にしようと努めた。
主著として『正蒙』『西銘』『東銘』『経学理窟』『易説』などのほか若干の詩文と語録があり、『張氏全書』に一括して収められている。
太極 = 太虚 = 気
太虚 ⇒ 陰 陽
太和 ⇒ 収斂、凝縮、拡散、分化
同じ気が多様な形態に具体化した物が万物 ⇒ 万物と私は根本的に同質である
⇒ 四海同胞主義
天地の性はと止まること無く循環する
気質の性は偏ることもある
自然の誠実を学ぶ ⇒ 誠実性を取り戻すのが修養
【程顥(ていこう)】(1032~1085)北宋五子
現河南省人、号明道、理学の祖
「理説」「性即理説」の創始者
仁は万物と渾然し同体である、義、禮、智、信は皆仁である
【程頤(ていい)】(1033~1107)北宋五子
河南省人、号伊川、程顥、程頤兄弟は河南洛陽で生まれ「洛学」とも言う
『洛学の天理説』;理気説は後に、「朱喜理学」の理論的基礎となる。
【楊時】(1053~1135)
字は中立、号は亀山(きざん)。南剣州将楽(福建省)人。官は竜図閣直学士に至る。最初程顥(明道)に師事し、程の死後、弟の程頤(伊川)に師事した。程門の四先生の一人。楊時によって二程の学説が華中・華南の地に広められ、南宋の朱熹(朱子)や張南軒に継承されていった。『二程粋言』を編集したほか、著に『亀山語録』、『亀山文集』がある。
◆未発と修養
「中庸」の未発問題
喜怒哀楽がまだ発現してない「中」に留まる ⇒ 未発の体験の努力
⇒ 言語まだは事物の形までも超越する純粋で静かな心を維持すれば完全なる道徳を実現
(老子、荘子の影響)
◆道心と人心 ⇒ 道心の獲得に努力するべき
道心(純粋な真心)=未発(中)=静
人心(悪に向かう可能性がある心)=已発(喜怒哀楽)=動
◆切欲(仏教)ではなく節欲を強調
【朱喜(しゅき)】(1130~1200)姓は朱、諱は熹(き)、字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。朱子は尊称である。祖籍は徽州婺源県(現在の江西省)。
南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、1200年(慶元)、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。19歳に進士、15年間官職生活以後、福建考亭にて講学し「閩学」又は「考亭之学」とも言う。「朱文公文集」100巻、「朱子語類」140巻、「四書集注」、「近思録」など膨大な著述を残す。四書を五経より高く評価、重視。科挙
朱子の地位
「性即理論」;人間が天から受けた本質である性こそが、人間と自然界の存在本質である「理」である。「理(天理)」とは具体的な事物の準則であり事物が発展する必然的な趨勢である。又、宇宙万物の本源であり社会倫理と道徳規範の総合である
「理気二元論」;万物の根源を理と気に求む
「理」とは形而上之道―――事物を生む根本
「気」とは形而下之器―――事物を生む道具
「理気本末」
「理気先後」
「理気動静」
理(原理)、理致、道理、
「理」;一つの事物には必ず理があり、この世の中を貫通する一つの理があり、これは具体的であり現実の世界に存在しながらも目で見る事も数える事も出来ない。
「理一分殊」;달은 하나지만 강과 호수에 여러개로 보임
道徳的、物理的に正しい事が理(物理、事理、道理,順理)
차가 육지를 배가 바다를 가듯이
「理の運行」;太虚(陰、陽)――太和(収斂、凝縮、拡散、分化)=万物
「気」;物質の下地、材料、気運、作用、生命力などの意味を含む、気を抜いて本性を論じる事は不完全である、同じ気が多様な形態に具体化(万物と私は根本的には同じ)。
「気の運行」―――<陰・陽>―――五行(五気、火、水、木、金、土)=質
陰・陽は「気」であり、五行(木・火・土・金・水)はその「質」である。
「格物致知論」;知識を究める事により、事物の理を極める(主知主義)
四書;「性、心、仁、義の探求」=「理の探求」、以後、四書を重視
「理学」;性即理(性=理)普遍的な理致、規範を重視、理致の探求と経書研究(道問学)
「朱子巻95」
形而上者、無形無影是此理
形而下者、有情有状是此器
〇理は太極で宇宙万物の本源である。
〇理は形而上の道であり、超感覚、超時空の絶対精神である。
〇理は仁義礼智を総合した名であり、倫理・道徳の準則である。
〇理は事物の準則であり、自然界の規律である。
③太極
全ての事物は一つの極を持っている、これが「理」である。天地万物の理を総括するのが太極である、太極は理である、理とは宇宙万物の根本理念である。
④気、精気、元気、活気、生気、気運、
⑤心と性
⑥政治哲学
⑦精神修養方法
【陸九淵】(1130~1192)
江西省金渓(きんけい)の人。字子静(しせい)、号は存斎、象山(しょうざん)先生と称された。兄の九齢(復斎)とあわせて江西の二陸といわれ、象山の思想は、人間の本心である徳性をしっかりと保持し、利欲に惑わないことを第一とした。朱子が経書(儒教の古典)をよく読み、知的に深めていくことを重視したのに対し、象山は本心に基づく道徳的実践を重視した。人はみな、古来の諸聖人と同じ心を生まれつき保有していて、しかも道徳的な判断力や感覚、すなわち「理」をもっている。心が理を備えていることを「心即理」といった。心に内在する天理を信じ、これに従って行動することを強調した結果、儒教古典としてたいせつな六経(りくけい)でさえも「我が心の注脚」とみるようになった。経書に注釈を書くことに努めた朱子とはこの点が対立する。象山と朱子はしばしば手紙で論争し、1175年には江西省の鵝(が)湖で会見したが意見は一致しなかった。朱子は象山を、学問を軽んずる実践主義者と評し、象山は朱子を、実践を軽んずる知的博学主義と評した。象山の門下の楊簡(ようかん)(慈湖)は、やがて静坐(せいざ)主義となり、禅思想とも似てきた。元(げん)代になると朱陸折衷の学風がおこったが、明(みん)代中期に王陽明(守仁(しゅじん))は、象山の「心即理」の思想を認め、そこから「致良知」という新しい思想を生み出し、朱子学を批判する陽明学となった。
「心学」;心即理(性=心=理)道徳心、四端を重視、道徳心の回復と保存(存徳性)
「大義名分論」;君臣、父子の身分関係を正す。
「心即理」;人間の心性を重視し、心の中にこそ、理は内在する。
認識と実践の統一を重視し主観的「唯心論」を主張―――明の「陽明学」に影響
道徳心を重視、仁、義
【陳亮】(1143~1194);王覇論争
●陽明学
朱子の「性即理」の説に疑問をもった王陽明は、やがて「心即理」、すなわち朱子の立場からは「性」と「情」に分析されるべき「心」を一体としてとらえ、これが「理」であると主張した。そして、朱子が理をきわめるための方法として説いた「格物致知」を、物すなわち意の発動を正すことによって良知を実現する(致良知)、と解釈した。つまり、致知ということは、知識を磨くということではなくて、知(良知)を実現すること、さらに人間の心にある良知を実践において実現することである、と説いた。これが、陽明学の「知行合一」の立場である。明末にマテオリッチが西洋の文物を伝えた
【陳献章】(1428~1500)敬(静)明、心学の先駆者
陳献章の学は静を根本に据え、静坐(せいざ)によって心を明澄にする修養を説いた。静中に端倪(たんげい)(いとぐち)を得、そこから天地宇宙に充満する理を体得し、この理こそわが心にほかならないと確信するに至る。ここを体得すれば、「天地は我によって立ち、すべての現象は我から生まれ、宇宙は我にある」と説く。このように外的に規範を追求するのではなく、人間の心が本来具有している能力を信頼し、心のあり方に人間の主体性の確立を求める学問を心学とよぶが、王陽明とともに心学の先駆をなした。著に『白沙子全集』がある。
【王守仁】(1472~1528)王陽明、「心即理説」「伝習録」実践、実用を重視
정원의 대나무를 7일 동안 보며 理를 구했다.
환관 유근을 탄핵문 상소로 인해 귀양(34세),
성인이라면 어떻게 할까?
나의 本性이 이미 온전 한데, 事物에서 理를 구함이 잘못,
모든 理致가 이미 내 마음 속에 갖추어져 있음이라.(38세)
氣에 갖추어 져있는것이 條理.
①宇宙観
②明徳
③良知
④格物
⑤心の敬
⑥仏教思想の批判
「致良知」;人間の心にある良知によって物を正とす
「正」(ただしい);道徳的、物質的に正しいのが「理」である。又、理とは無極であり、太極である。(物理・事理・道理・順理)
「理致」・「法則」―――こころの理―――「性理」
「知行合一」;知識と行動とは合一すべき
●実学「経世致用之学」
【李時紾】(1523~1596)本草綱目(医書)
【徐光啓】(1562~1633)農政全書(農書)
【宋応星】(1590~1650)天工開物(工書)
【趙士禎】 神器譜(兵書)
【計 成】(1582~?)園治(造園書)
●清朝の儒学(1644~1911)
経典の中から確実な証拠を求め実証的に学問を研究
【黄宗義】(1610~1695)「明夷待訪録」
【顧炎武】(1613~1682)「日知録」
●考証学
宋学に対しての動きで、政治的な論議をさけ、古典の研究を通じ、特に漢代の注釈を尊重し、文献的な批判した学派。
【閻若璩】(1636~1704)儒学経典のほか歴史学、歴史地理学、金石学、音韻学にも博学
<乾嘉之学> 乾隆、嘉慶年間の学問(1735~1820)
【戴 震】(1723~1777)
【銭大昕】(1728~1804)
【段玉裁】(1735~1815)
●公羊学派 、常州学派、今文学派
「春秋」の注釈書である「公羊伝」なかの孔子の思想を正統視した学派
【荘存与】(1719~1788)以後、康有為に影響を与える
【康有為】(1858~1927)変法自強運動、「新学為経考」「孔子改制考」などを著述
●主な儒学基本書
<五経>
〚詩経〛;〚毛詩〛〚詩伝〛〚詩〛 殷時代から春秋時代までの詩を集めた詩集
〚書経〛;〚尚書〛〚書伝〛〚書〛 歴史書
〚易経〛;〚周易〛〚易〛
〚礼記〛; 馬融により漢末に編纂、礼の理論と実在を書いた総49編の本
〚春秋〛; 魯の年代記(BC722~481年までの歴史記録)
〚楽記〛;〚楽経〛 六経の一つ
<四書>
〚論語〛;学問の基礎
〚孟子〛;学問の具体的、細部的な側面
〚大学〛;学問の大綱領
<三綱領> ①明明徳 ②新民 ③止至善
<八条目> ①格物 ②致知 ③誠意 ④正心 ⑤修身 ⑥斉家 ⑦治国 ⑧平天下
〚中庸〛;学問の深遠な哲学的側面
〚孝経〛(孔子の著述、曾子編纂)
〚孝経〛開宗明誼章 身体髪膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也。
立身行道 揚名於後世 以顯父母 孝之終也。
〚小学〛(朱子の著述、劉子僜編纂)
朝鮮の儒学者
『土着固有思想』(檀君、天神、山川神、先祖神など)
『佛学思想』
『儒学思想』
『道学思想』
『西洋思想』
東洋三国の基本思想 ⇒ 儒・仏・仙 ⇒ 人の問題を考える(全部人偏) |
徳 ;人間が天から授かる本性(得)
孔子;仁義「見得思義」
孟子;仁義礼智
漢代;仁儀礼智信
宋代;仁儀礼智信忠孝悌
「仁」 | 「義」 ⇒ 儀、宜、誼 |
「惻隱之心」 人の心(人心、安宅) 人間の内面的な基礎 | 「羞悪之心」、孔子;「見得思義」 人が行く道(人路、正路) 人間の外形的な行動規範、不義を拒絶、 |
朝鮮;仁儀礼智信忠孝悌、義理、廉恥
朝鮮の思想は基本的に「心性論」、「朱子学」中心の探求
※ソンビ精神(士林派)
어질고 知識이 있는 사람, 마땅히 行할 바를 行하며, 하늘이 부여한 職分이자 義務
大義名分、正邪分明の為に命をかけた抵抗
「義理」 | 「廉恥」 |
節義、節概、節操、志操、正義、義理具現 節義精神(実践窮行、殺身成人) 義理は認識原理ではなく行為規範である 行動を通じて実現しなければならない 義を見ながら行動が伴わなければ勇気がない事である ⇒「義勇」、「諫言」 君子が勇気だけあれば ⇒ 乱動 小人が勇気だけあれば ⇒ 泥棒 | 廉;清廉潔白、私欲がない、けじめがついている (破廉恥) ソンビ;「行己有恥」「修己治人之道」 |
●三国時代
三個時代の儒学の目標は経典と史記を通じ政治と法律の制度を知り、それを運用できる官僚の育成にあった。又、詞賦と文章を学習させる事をで、内求的のではなく外求的のものであり、目的の為ではなく手段であった
2世紀末;高句麗の大臣、乙巴素
285年 百済の王仁、日本に論語、千字文伝える
372年 高句麗、「太学」設立
682年 新羅、「国学」設立(上、中、下班で教育、論語と孝経が最重要科目、後に、太学、国学、国子監、成均館として発展);卿、博士、助教、大舎(大舎、651年設置)
読書三品科(一種の科挙)
22代、王に変える(中国文化を本格的に適用する)
花郎徒
〚世俗五戒〛 圓光法師(?~630年)が『花郎徒』(576年)の為に作った規律
1、事君以忠
2、事親以孝
3、交友以信
4、臨戦無退
5、殺生有択
〚禅門四戒〛 1、不殺生 → 慈悲(他の生物に)
2、不偸盗 → 正直(他人の物に)
3、不邪淫 → 正節(他の夫婦に)
4、不妄語 → 誠実(他人に)
〚仏教三宝〛 1、『仏宝』(釈迦)通度寺(仏舎利)
2、『法宝』(仏経)海印寺(八万大蔵経)
3、『僧宝』(僧侶)松廣寺(東国大学校)
●新羅三文豪
【強 首】(?~692)伽耶人、漢文に優れ唐からの外交文書を訳、新聞王時国学設立、以後薛聰と一緒に九経講義
【薛 聰】⑱(746年に博士)父元曉、母瑤石公主、翰林学士
【崔致遠】⑱(857~?)11歳の時、唐に留学、16歳に科挙に及第、「時務十条」
黄巣の乱の時「討黄巣檄文」作成、884年(28歳)帰国、「桂苑筆耕」「釈順應伝」などを
著述。
強い骨品制度のため儒者達の不満が大きくなり反乱が起きる、後三国
●高麗の儒学者
961年 (光宗) 科挙を実施(進士科、明経科、僧科)
992年 国子監設立(国子学、太学、史文学)
新羅と同様論語、孝経を重視、経学博士を置き儒学奨励
文宗年間 崔沖、九済を設立し後学を養成
忠烈王年間 安珦、国学を設立し文廟を重修する
【崔承老】(927~989)麗初三儒の一人、「時務二十八条」禮、樂、詩、書
【崔 沖】(984~1068)「崔文憲公遺稿」を著述、(文憲公徒、私学十二徒)
【金富軾】(1075~1151)「三国史記」を編纂、儒学者達が主導権を持つ
【李奎報】「東明王篇」
【柳 敬】安裕の師匠
【安 珦】①⑱(1243~1306)安裕「性理学」を導入
【白頤正】②(忠宣王年間)安珦の弟子、元に留学「朱子学」を導入
【権 溥】
【禹 倬】
【李齊賢】③(1287~1367)白頤正の弟子、「益斎乱藳」「檪翁稗説」などを著述
【李 穡】④(1328~1396)牧隠(麗末三隠)、「牧隠集」55巻を残す
【鄭夢周】⑤⑱(1337~1392)圃隠「東方理学の祖」、「丹心歌」で有名、「圃隠集」
1388年、李成桂がクーデターを起こし政権を掌握すると、李芳遠(のちの太宗)の手により善竹橋で暗殺された。のちに「東方理学之祖」と称えられた。
이런들 어떠하리 저런들 어떠하리 만수산 드렁칡이 얽혀진들 어떠하리 우리도 이같이 얽혀서 백 년까지 누리리라 이 몸이 죽고 죽어 일백 번 고쳐 죽어 백골이 진토 되어 넋이라도 있고 없고 님 향한 일편단심이야 가실 줄이 있으랴 この身は死に死して百回死に絶えようと 白骨が塵となり土となり魂があろうとなかろうと 王に向けた一片丹心枯れることはない 「丹心歌」 ⇒ 「忠臣不事二君、烈女不更二夫」 |
【吉 再】⑥(1353~1419)冶隠「冶隠集」、「冶隠言行拾遺」などを残す
【李承仁】陶隠
●朝鮮の儒学者
冠婚葬祭を仏教式から儒教式に転換(朱子家禮)、祠堂、家廟(宣祖以後一般化)
李滉と李珥の時代が朝鮮儒学の黄金時代であった、以後東人、西人の対立始まる。
やがて、礼学を中心とした学問となり慕華思想を生み老論、小論と言った党派、党争生み出した。※ソンビ精神(士林派)
高麗末から朝鮮初期に家礼(国民倫理)が普及(三綱行実図、国朝五礼儀などの刊行)
朝鮮の儒学は「心性説」中心の理論探求
【鄭道傳】(1342~1398)朝鮮の開国功臣、父である鄭云敬の友、李穡の弟子、1360年科挙に合格、1388年李成桂の幕僚となる。
朝鮮王朝が建国された直後、すべての権限は鄭道伝に集中した。性理学的民本政治の土台を構築し儒学を「国家百年之大計」の至上理念とし、その振興に努力。
漢城遷都の以後、宮と宗廟の位置と称号、門の称号を定め、『朝鮮経国典』を著わして法制等の基礎を作った。『仏氏雑弁』を著わして崇儒抑仏政策の理論的基礎を確立した。
【権 近】(1352~1409)鄭夢周の弟子、「五経浅見録」「入学図説」「天人心性合一之図」
【金叔滋】⑦(1389~1456)
【金宗直】⑧(1431~1492)戊午士禍(1498年)時「剖棺斬屍」
【鄭汝昌】⑱(1450~1504)
【金宏弼】⑨⑱(1454~1504)甲子士禍(1504年)時、処刑
【趙光祖】⑩⑱(1482~1519)己卯士禍(1519年)時、流配処刑「靜庵集」などを著述
【徐敬德】(1489~1546)【気一元論】「花潭集」などを著述、李珥に影響を与える
【李彦迪】⑱(1491~1553)【主理穏健派】乙巳士禍(1545年)時、失脚
「無極太極之論」李滉に影響を与える
【白仁傑】⑪(1497~1597)
【李 滉】①⑱(1501~1570)【主理穏健説】乙巳士禍(1545年)時、失脚
嶺南学派の祖(東人)、字は景浩、号は退渓、陶翁、清涼山人、真宝人、慶尚道安東生
文科及第ののち成均館の司成となるが、1545年の乙巳士禍で失脚した。洛東江のほとりの兎渓に養真庵を結んで隠遁し、兎渓(トゲ)の地名から「退渓」(テゲ)と号して学問に専心した。その後、たび重なる出仕の命に応じて丹陽・豊基郡守、成均館大司成などを歴任。豊基郡守(現、栄州市)時代には紹修書院を開いた。
1560年には郷里に隠棲し、「陶山書院」を開き、儒教の研究と後進の育成に力を注いだ。「陶山書院」は王から扁額を賜った賜額書院として朝鮮の儒教の興隆のさきがけとなる。
エピソード
ソウル中心部にある道路「退渓路」は彼に因んで名づけられている。
大韓民国の1,000ウォン紙幣の肖像画となっている。
退渓は梅を愛した人物で、その遺言も「あの梅に水をやってくれ」だった。
思想
李退渓の思想は明朝で盛んになった陽明学を退け、朱子学を尊重することで、朱子学の提要である「格物致知」の概念や「理気論」に基づいた議論を展開、「東方の小朱子」と呼ばれる朱子の「理気二元論」を継承、発展。「聖学十図」「朱子書節要」などを著述。
この世の全ての物質と人間は「理」と「気」の結合によって存在する。どんな現象(気)の個別的な存在は個別性を持つ根拠が有り、全ての個別者には異面に同質的な普遍性「理」が内在している → 「理気二元論」朱子、「理気互発説」退渓 理と気の道徳的の価値として 「理」(本性之性)⇒「純善無悪」として絶対的価値を持つ。 「四端」は「理」から出る心とした。理発動論(四端は物に感し動する) 「気」(気質之性)⇒「善悪未定」、「可善可悪」として相対的価値を持つ。 「七情」は「気」から出る心とした。 ◎四端 「惻隱之心」「羞悪之心」「辞讓之心」「是非之心」 ◎七情 「喜」「怒」「哀」「懼」「愛」「悪」「欲」(礼記、中庸に出典) |
喜(キ)、 怒(ド)、 哀(アイ)、あわれ、かなしい、哀れに思う、서러울애, 슬퍼할애, 민망하게여길애 懼(ク)、恐れる、怖がる、恐怖を感じる、두려워할구, 공포를느낌, 무서워함 愛(アイ)、사랑할애, 그리워할애, 소중히여김 悪(オ)、憎む(憎悪증오)、恥ずかしく思う、미워할오, 헐뜯을오, 부끄러워할오 欲(ヨク)、ほっする、ほしがる |
「退高四七論争」退渓53歳10月(1559年開始) 鄭之雲 ⇒ 「四端発於理 七情発於気」 <天命図説の序文> 李退渓 ⇒ 「四端理之発 七情気之発」→「理気四七論」 奇大升 ⇒ 理と気がまるで別なものみたい→「理気共発説」李珥が賛同 李退渓 ⇒ 「四端理発而気隨之 七情気発而理乗之」→「理気互発論」 ソンビは勢力(お金)と地位(権力)に屈しない 金持ちが「富」が有るとするならば私は「仁」があり 権力者が「貴」が有るとするならば私は「義理」がある 「利害」と「義理」が衝突するとすれば「義理」を選択する |
【曺 植】(1501~1572)「南冥集」「破閑雑記」などを著述
【金麟厚】⑱(1510~1560)「大学講義跋」などを著述
【奇大升】(1527~1572)【主気派】、「高峰集」「論思録」などを著述
「四端七情分理気往復書」;四端七情を主題とし李滉と8年間の往復書簡を集めた本
【金孝元】②(1532~1590)【主理派】【東人】朋堂(東人、西人)始まり
【成 渾】⑱(1535~1598)【主気強硬派】【西人】李珥と論辨
【李 珥】⑫⑱(1536~1584、49歳卒)【主気強硬派】【西人】畿湖学派の祖
号は栗谷、字は叔献、李滉とならぶ朝鮮二大儒、李滉の「主理説」に対し「主気説」を展開した。李珥は李元秀と申師任堂の三男として江陵に生まれた。母の申師任堂は詩文や書画をよくし、賢母良妻として評価が高い。1548年、わずか13歳で進士の初試に合格し世間を驚かせた。母の喪に服した(李珥が16歳時他界)後は学術に専念し、九回受験した科挙で全て壮元だったため「九度壮元公」と称された。→ 政策提議「天道策」장원급제 문장
官吏としては戸曹佐郎、礼曹佐郎、吏曹佐郎、右副承旨、吏曹判書を歴任、1568年に明国に使者に立っている。大同法の実施や「十万養兵説」を主張するなど時代に合う改革を行った。又、学問のほうでは「気発理乗一途論」、「理気一元的二元論」等を発表した。「東方之聖人」と云われた。「聖学輯要」「撃蒙要訣」などを著述。
エピソード
韓国5,000ウォン紙幣には李珥の肖像画が描かれている。裏面には申師任堂が描いた“草虫図”が描かれている。(旧貨には彼の生家である烏竹軒)
2006年に発行された新貨には彼の母(申師任堂)の肖像画が描かれている。彼を産むとき、母親の申師任堂の夢に龍が現れる奇瑞があったと伝えられている。
思想
李滉の「理気二元論」に対し、李珥は「理」は無形無為の存在であり「気」は有形有為の存在として、「理」は気の主宰者ではあるが「気」は理が乗るだけであり、一元論でも二元論でもなく宇宙の構成は「理」と「気」がそれぞれ互いを包括しているという気を中心に置いた主張を行った。
「四端七情」と呼ばれる人の性に議論を置き換えてもそれは同じで、四端や七情がいずれも、「気が発して理がそれに乗る」という一つの形式であるという包括関係を説いた。
→ 「気発理乗一途論」、「理気一元的二元論」
1583年に「十万養兵」を提議、朝鮮が国防を軽視している現状から、やがて来るべき北胡(女真族)や南倭(日本)の侵略に対する施策として常備兵の必要性を説いたものだが、民たちに負担がひどいという理由で顧みられることは無かった。
後世に残した影響
16世紀前半の朝鮮は士林派と勲旧派の政治闘争が激しく、ちょうど李珥が官吏となった直後、1567年の宣祖の即位から士林派が台頭する。しかし士林派の中で政策を巡って東人と西人の党争が表面化し、これらが朱子学の解釈の違いにまで党争の材料に使われてしまう。東人は李滉、西人は李珥の思想の流れを汲む派閥であった。李珥自身は党争を仲裁していたが、栗谷の死後やがて党争は激化し、内政や外交などの各面で深刻な影響を及ぼしたまま豊臣秀吉の文禄・慶長の役を迎えることとなる。
畿湖学派(西人)の祖として、李退渓の嶺南学派に対する儒学の学流を築いた。
経世済民の抱負を持ち徐敬徳と李滉の学問を折衷集大成し、 「気発理乗一途論」、「理気一元的二元論」等を発表 발하는 것은 기, 발하는 까닭은 리 「発」する者は「気」、「発」する理由は「理」である。 「気」じゃないと発しない、「理」じゃないと発その者がない。 ⇒ 「気一途説」 「理」が発して「気」が理につくのが → 「四端」 「気」が発して「理」が気を乗るにが → 「七情」 「四端」は気から発した七情中で善たる部分の発である 「理」とは条理とし宇宙の「体」である ⇒ 無形、無為、無差別 「気」とはその条理を具体化する活動であり宇宙の「用」と成る ⇒ 有形、有為、参差不斉 人間の存在と本質も行動的な面より「理念的な面」から追求 人間の純粋理性は「絶対善」である、これを継ぐのが「最高徳」である。 |
李滉、李珥の時代が朝鮮儒学の黄金時代、以後東西対立(老論、小論)、礼学中心の慕華思想が流行る
【柳成龍】③(1542~1607)【主理】【東人・南人】李滉の弟子、壬辰倭乱時、四道都体察使として軍事を総指揮、「懲毖録」「西厓集」などを著述。
【鄭 逑】(1543~1620)【礼学】【西人】→ 宋時烈
【趙 憲】⑱(1544~1592)
【金長生】⑬⑱(1548~1631)【主気、礼学】【西人】
【李晬光】(1563~1628)【実学】韓国最初の百科事典である「芝峰類説」を著述
【金尚憲】(1570~1652)
【金 集】⑱(1574~1656)【西人】
【崔鳴吉】(1586~1647)【陽明学】「朱子大全箚疑」「尤庵集」などを著述
【張 維】(1587~1638)【陽明学】
【許 穆】(1595~1682)
【宋浚吉】⑱(1606~1672)【西人】
【宋時烈】⑭⑱(1607~1689)【主気】【西人・老論】
【柳馨遠】(1622~1673)【実学、重農】「磻溪随録」を著述
【朴世采】⑱(1631~1695)
【権尚夏】⑮(1641~1721)
【鄭齊斗】(1649~1736)【陽明学】
【李 瀷】(1681~1763)【主理、実学、重農】「星湖塞説」「霍憂録」などを著述
【洪大容】(1731~1783)【主気、北学、重商】
【李肯翊】(1736~1806)【実証学】
【朴趾源】(1737~1805)【主気、北学、重商】
【朴齊家】(1750~1815)【主気、北学、重商】
【丁若鏞】(1762~1836)【主気、実学、重農、重商】1762(英祖38)~1836(憲宗2)
朝鮮実学の最高峰、畿湖南人星湖学派の信西派人物。本貫は羅州。字は美鏞・頌甫、号は茶山・三眉・與猶堂・俟菴・紫霞道人・籜翁・苔叟・門巖逸人・鐵馬山樵。
晋州牧使丁載遠の子、京畿道広州で生まれた。1776年(正祖即位年)戸曹佐郎に任命された父に伴い上京、翌年李瀷の遺稿を読みその学問に感銘を受けた。1783年会試に合格、経義進士となり御前で《中庸》を講義した。1784年李蘗に西学に関する話しを聞き冊子を読んだあと関心を持ち始めた。韓国の歴史・地理などにも特別な関心を見せて主体的史観を提示し、合理主義的科学精神は西学を通じて西洋の科学知識を導入するに及んだ。
1789年式年文科に甲科で及第したが、カトリック教徒として同じ南人である功西派の弾劾に遭い海美に流配された。10日で解かれて持平に登用、1792年修撰にある時、西洋式築城法を基礎にした城説と起重架図説を書き、呈して築造中である水原城修築に大きく寄与した。
その後、京畿道暗行御史、兵曹参議、承旨、谷山府使などを歴任したが、この間何度も策略に陥り、左遷と復職を繰り返した。1799年、また兵曹参議になったが辞職し、翌年彼を惜しんだ正祖が世を去ると、1801年(純祖1)の辛酉迫害(辛酉敎難)時には、長期間流刑になった。また、黄嗣永の帛書事件で再び康津に移され、流配から解かれるまでの18年間学問に没頭、その中に《牧民心書》・《經世遺表》・《欽欽新書》・《麻科會通》・《毛詩講義》・《梅氏尚書平》・《尚書古訓》・《尚書知遠録》・《喪禮四箋》・《四禮家式》・《楽書孤存》・《周易心箋》・《易學諸言》・《春秋考徴》・《論語古今注》・《孟子要義》など500数冊に及ぶ多くの著述を残し実学を集大成した。1910年(隆煕4)墓前に碑が建立された。謚号は文度。
主気、実学、重農、重商 畿湖、南人、星湖学派の信西派 従来の儒学が「修己以敬」孔子、「修己治人」、「修己安人」、「正徳厚生」など自己修養(修己)を優先したが実学では「経世済民之学」として「実事求是」、「経世致用」、「利用厚生」等を重視 このような学問体系は柳馨遠と李瀷に続く実学の重農主義的学風を継承したもので、さらに朴趾源を代表とする北学派の技術導入論を受け入れながら実学を集大成したものであった。政治機構の全面的改革と地方行政の刷新、農民の土地所有均一化と労働力に依拠した収穫の公平な分配、奴婢制の廃止などを主張した。 |
【金正浩】(?~?)【実証学】1861年、「大東與地図」
【金正喜】(1786~1856)【実証学】
【崔漢綺】(1803~1877)【実証学】「神気通」「地球典要」など一千余巻の著述を残す
【崔益鉉】(1833~1906)抗日義兵活動、「勉庵集」を著述
【李建昌】(1852~1898)【実証学】「明美堂集」「党議通略」などを著述
【黄 玹】(1855~1910)「梅泉野録」「梧下記聞」などを著述
【朴殷植】(1859~1925)民族史学の創始者、「皇城新聞」主筆、愛国文化運動を展開、独立運動に献身、1924年、大韓民国上海臨時政府の大統領になる。「韓国通史」「韓国独立運動之血史」などを著述
【申采浩】(1880~1936)「大韓毎日新聞」主筆、生涯を独立闘争に捧げる。1926年に逮捕され、1936年中国旅順監獄で獄死。「朝鮮上古史」「朝鮮史研究草」などを著述
【鄭寅普】(1893~?)【陽明学】「陽明学演論」
終戦後、全国の儒者がソウルに集まり、社団法人「儒道会総本部」を結成し、地方組織も構成した。又、財団法人「成均館」を設立し、地方の「郷校」を管轄するようになった。1946年には「成均館大学」も設立された。たが、猛烈な気勢で、拡散する産業化と資本主義の波の中、農耕時代の倫理体系、哲学体系たった儒学は薄れていくのが、今日の韓国の現状である。
儒学論争
儒学論争 | |
端宗哀史(魯山君、1557年自殺)、1455年、世祖王位 士林派 勲旧派 戊午士禍(1498年);金宗直(1431~1492)剖棺斬屍 「弔義帝文」問題(金宗直弟子士林×유자광勲旧) 甲子士禍(1504年);金宏弼(1454~1504)処刑 「廃妃尹氏」問題 己卯士禍(1519年);趙光祖(1482~1519)流配、処刑 「政治改革」問題 乙巳士禍(1545年);李滉(1501~1570)失脚 「」問題 (嶺南学派・主理派) (畿湖学派・主気派) 東人 西人 (退渓李滉学派、南冥曺植学派) (栗谷李珥学派、成渾学派) 理気互発論 ← 四端七情論争 → 気発理乗一途論 理気一元的二元論 四端 ← 理発 四端 ← 気発 七情 ← 気発 七情 ← 気発 ◎四端 ⇒「惻隱之心」「羞悪之心」「辞讓之心」「是非之心」 ◎七情 ⇒「喜」「怒」「哀」「懼」「愛」「悪」「欲」 主理論・理気二元論 ← 理気論争 → 主気論・理気一元論 理 > 気 理 ≧ 気 ◎「理」とは条理とし宇宙の「体」である ◎「気」とはその条理を具体化する活動であり宇宙の「用」と成る 王朝礼≠士大夫礼 ← 礼訟論争 → 王朝礼=士大夫礼 孝宗葬儀=次・長子服制 孝宗葬儀=次子服制 孝宗妃葬儀=次・長子副服制 孝宗妃葬儀=次子副服制 ◎一次、己亥礼訟(1659);孝宗葬儀 ◎二次、甲寅礼訟(1674);孝宗妃葬儀 | 成宗 燕山君4年 燕山君10年 中宗14年 明宗元年 1469~1567 |
四色朋党
四色朋党 | |
士林派 勲旧派 ↓ 東人 (治者修己) (富国安民) 西人 (退渓李滉、南冥曺植、徐敬德学派) (栗谷李珥、成渾、奇大升学派) (金孝元、許曄、金誠一) (沈義謙、朴淳) 南人 北人 ↓ (退渓学派) (南冥学派) ↓ (柳成龍、禹性傳)(李山海、李潑) ↓ 大北 小北 ↓ (光海君支持) (永昌大君支持) ↓ 骨北 肉北 中北 清北 濁北 ↓ 南人 小北 西人 …………………… ↓ 清西 功西 老西 小西 元党 洛党 南人 山党 漢党 (大同法反対) (大同法主張) 南人 西人 清南 濁南 少論 老論 (嶺南) (畿湖) (成渾系列) (李珥系列) (許木) (尹拯、南九萬)(宋時烈、金壽恒) 南人 少論 老論 (景宗支持) (英祖支持) 南人 緩少 埈少 …………………………………………………………………………………… ↓ ↓ ↓ 時派 蕩平派 僻派 (親思悼世子) (南人、少論、老論併用主張) (反思悼世子) 時派 信西派 蕩平派 功西派 僻派 (西学支持) (西学反対) 勢道政治 | 1591年 宣祖 1567~1608 1608年 光海君 1608~1623 1623年 仁祖 1623~1649 孝宗 1649~1659 顯宗 1659~1674 肅宗 1674~1720 景宗 1720~1724 英祖 1724~1776 蕩平策 正祖 1776~1800 純祖 1800~1834 |
<韓国の儒学の流れ>
◆漢学(経学)
◆性理学(朱子学)
〚勳旧派〛;「官学派」とも言い、現実を重視する、実用主義路線をとる(急進派)
〚士林派〛;原理原則を重視する、理想主義路線をとる(穏健派)
◆礼学
◆陽明学
◆実学(経済学派);英、正祖年間(1724~1800)
実事求是之学とし「利用厚生の道」と「経世済民の術」を主張、主に実際の生活に必要な、経済的の学問の研究
〚重農学派〛;李瀷の弟子系列が中心(南人系列)
〚重商学派〛;「北学派」とも言い、清を通じ外国の文物制度の研究を主張(西学の傾向)
〚実証学派〛;中国の考証学の研究、国の実情調査研究
◆東学
【崔濟愚】(1824~1864)1860年に東学を創始
【崔時亨】(1829~1898)
【孫秉熙】(1861~1921)3・1運動33人の一人、1907年東学を「天道教」に改名
●主な儒学基本書
〚孝経〛(孔子の著述、曾子編纂)
〚小学〛(朱子の著述、劉子僜編纂)
<四書>
〚論語〛
〚孟子〛
〚大学〛
<三綱領> ①明明徳 ②新民 ③止至善
<八条目> ①格物 ②致知 ③誠意 ④正心 ⑤修身 ⑥斉家 ⑦治国 ⑧平天下
〚中庸〛
<五経>
〚詩経〛;〚毛詩〛〚詩伝〛〚詩〛 殷時代から春秋時代までの詩を集めた詩集(孔子)
〚書経〛;〚尚書〛〚書伝〛〚書〛 歴史書(孔子)
〚易経〛;〚周易〛〚易〛
〚礼記〛; 馬融により漢末に編纂、礼の理論と実在を書いた総49編の本
〚春秋〛; 魯の年代記(BC722~481年までの歴史記録)(孔子)
〚楽記〛;〚楽経〛 六経の一つ
〚孝経〛; 開宗明誼章 身体髪膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也
立身行道 揚名於後世 以顯父母 孝之終也
ソンビ精神
「撃蒙要訣」 李珥(栗谷、1536-1584)著
立志・革旧習・持身・読書・事親・葬制・祭礼・居家・接人・處世
三、持身
⑴ 九容; ① 足容重
② 手容恭
③ 目容端
④ 口容止
⑤ 声容静
⑥ 頭容直
⑦ 気容肅
⑧ 立容徳
⑨ 色容壮
⑵ 九思; ① 視思明
② 聴思聡
③ 色思温
④ 貌思恭
⑤ 言思忠
⑥ 事思敬
⑦ 疑思問
⑧ 忿思難
⑨ 見得思義
⑶ 四勿; ① 非礼勿視
② 非礼勿聴
③ 非礼勿言
④ 非礼勿動
⑷ 七好; ① 好色乎
(七克己) ② 好利乎
③ 好名誉乎
④ 好仕宦乎
⑤ 好安逸乎
⑥ 好宴楽乎
⑦ 好珍玩乎
白のブログ・baik's blog・baik.biz
0 件のコメント:
コメントを投稿